「僕の人生、まるごとパック」と金井美恵子

 金井美恵子の小説で好きなのは『文章教室』になるのだけれど、あの本はその昔付き合っていた人から進められて、「絶対に面白いから読むべき」という催促に次ぐ催促に根負けして手に取ったという経緯があって、そんなふうに書くと自分で見つけ出した本として誇ることを自ら封じてしまうことになる書き方になるので「バカだなあ」と呆れもするけれど、とにかく当時の僕は「仕方ない、そこまで言うなら……」としぶしぶの体で読み始める具合で、つまりこう書くからにはお分かりかと思うけれど、予想に反した画期的な楽しさがあって、「なんか天邪鬼みたいに意地を張った末に屈服したみたいで嫌だなあ」と居心地の悪さを感じつつ、それでも一日中ベッドの上で取り憑かれたように読書に耽っていたら、それを見て彼女は勝ち誇ったように「なんだか、すごくマイペースなことになってるよ」と強烈な皮肉の混じった言葉を投げかけてきたので僕は怯んでしまって、「じゃあ、もう読まないよ」と内心思ったりしたものの、やはりその本を置くことは出来ずに一気に読み進めてしまい、夜になって読み終わった頃にはすっかり気分も高揚していて、素晴らしい読書体験について溢れ出る思いを彼女にまくし立てていたら、彼女に「ねえ、中野勉みたいな男になってよ」と言われて、僕はそんな作品内で雄弁に物事を語るような博識な人間になるのは無理だと思ってまた怯んでいた。今考えてみると、この『文章教室』を読ませたかった理由は単に面白いからというよりも「作品に登場する人物を通して理想の男性像をこちらに植えつけようとしていた」という企みが潜んでいたのはないかという気がしないでもない、そう考えると言い知れぬ圧倒的なものを感じてまた怯んでしまう。



 それで、前置きとしては長いのだけれど、今日は金井美恵子の『目白雑録〈2〉―ひびのあれこれ』を手にして斜め読みしていたら面白い記述があったので、それについて書き留めておきます。「僕の人生、まるごとパック」という朝日新聞の切り抜きについてのエッセイで、その記事自体をまとめた文章がとても興味深いので、そのまま引用します。

39歳のデジタル製品プロデューサーの男性が、物心ついてから見たり書いたりしたもの全部(小学校時代のテスト、集めたチラシ、読んだ本など、書類68万枚、段ボール箱50箱分以上)をスキャナーでデジタル化(費用は少なくとも700万円近く)し、書斎の二台のモニター画面に一日二秒間隔で次々に「思い出」の画像を表示し、仕事をしながらながめている、というのである。モニター画面を見ていると、「過去の記憶が次々によみがえる」のだそうで「いくらでも発見がある。テレビやインターネットをぼっと見ているよりも、自分自身の記憶を見直す方が意義がある」というわけである。(『目白雑録〈2〉―ひびのあれこれ』 P.68)

 その後の話は、役所などの公文書はきちんと記録されているけれど個人的な思い出は管理する技術が遅れている、という内容につながっていくのだけれど、まあTwitterが出現した現在では刻々と「自分」の発言が記録されていっているわけだし、それに付随した「自分記録」アプリ(写真、読書、映画、食事など)の充実っぷりもあって、かなり満たされてきているのではないかという気もします。やっぱり自分についての記録って、好きな人は病的なレベルでアーカイブすることに躍起になっているんだろうし、自分が確かに存在していたことの実感を得る方法としては手堅いから、一般的レベルの人からも支持されやすいと思います。だからこそ、これだけネット上で記録化の類似サービスが普及しているのだろうけど、斯く言う僕も自分アーカイブ化は好きな方だと思うし、子供の頃からのノートとか落書き、それに定番の日記帳とか丁寧に取ってあって、たまに見返すなんて密やかな楽しみを持っています(笑)。
 でも、そんな性癖があるにも関わらず、今日ふと高校生の頃に入院した時期を思い出そうとしてみたら、どうも正確には分からなくなってしまっているというショッキングなことがありまして、10数年前のことと言え、あれだけはっきり記憶していた辛くてエグイ闘病の日々が曖昧になってしまっていることに愕然としてました。というわけで、次回はここに今回の入院した記録を写真と共に留めておきたいと思っています。ちなみに、お蔭様で、本日なんとか退院することが出来ました。

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